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平成の鹿児島緑茶考。
知覧銘茶.com 担当の うえっぶ松(webmatu)といいます。!
本日もどうぞ宜しくお願いいたします。
桜の花がいっきに花を咲かせて、どこも花見で賑わっているみたいですが、
まだ、少し厚着をして観に行かないと、夜が冷え込んだりしてます、
お茶農家では今から、遅霜の被害の心配をする季節です。
さて、今回は「日本茶の文化」についてお話したいと思います。
源頼朝による鎌倉幕府の成立と供に武士が政権を握る新しい時代が始まり、
中国で仏教を学んだ僧侶が、続々と帰国し、日本に新しい文化をもたらしま
した。1191年に帰国した栄西(ようさい)は臨済宗の開祖として有名ですが、
お茶に関しても大きな足跡を残しています。
栄西は帰国直後に、九州は博多の富春(ふしゅん)園に日本最初の茶園を開き、
また福岡県と佐賀県の境にも茶園を開きました。また、栄西は中国の様々な
書物を引用して「喫茶養生記」を著しました。
この本には「茶は養生の仙薬なり、延命の妙術なり。山野之を生ずれば其の
地神霊なり」という文章から始まります。後に「喫茶養生記」は日本の茶の
聖典となるそうです。
その頃僧侶を中心とする文化交流は盛んに行われ、「禅」をはじめととする
新仏教やそれに伴う中国文化も導入されたようです。
この時代のお茶は抹茶という新しい茶の製法と飲み方は寺院内で実用的な役
割と、禅の影響を受けた上流武士の間にも急速に広がり、需要の高まりとと
もに、お茶の生産は、産地、量ともに拡大しました。
南北朝時代には関東地方においても、名のある茶産地が生まれ、栄西がもた
らした茶に直接由来される京都栂尾高山寺(とがのおこうざんじ) の茶は歴
史的な由緒によって特別視され、その系譜に連なる宇治茶がやがて日本の茶
文化の中心として地位を占めるようになりました。
南北朝時代から、室町幕府にかけて、時代の先端をいく新しい趣向、一座の
楽しみの核としてお茶の愛好者は急増した模様です。また、京都を中心とし
た有力寺院内においても、清浄な精神の象徴として「茶」は広く普及し、日
本の美意識に「禅」の思想性を加えた「茶の湯」が生まれたのでした。
その中心になったのが、当時世界屈指の商人の町であった堺で、豊かな財力
に支えられ、戦国の大名達は、「茶の湯」を自らの権力と結びつけて、当時
茶道具がお城一つに相当するほどの評価を受けると同時に、茶会が権力確認
の場になることもたびたび、あったということです。
どう見てもお茶道具が私には、お城と同じには見えないんですけど、当時の
「茶の湯」の凄さが分かりますね。また「茶の湯」が日本の政治にも当時は
深く関わっていた事を来日したキリスト教宣教師達が、日本茶に対して、精
密な観察記録を残しているそうです。
それでは........また.......。
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