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平成の鹿児島緑茶考。
知覧銘茶.com 担当の うえっぶ松(webmatu)といいます。!
本日もどうぞ宜しくお願いいたします。
先日桜島が久々に爆発いたしまして、ちょうど鹿児島市内は「どか灰」で
道路が灰で雪みたいに積もりました。まあ明日(14日)当たりには雨が降って灰
を流してくれる予定ですけども...。
さて、今回は「日本のお茶の歴史」についてお話したいと思います。
前回、来日したキリスト教宣教師達が、日本茶に対して、観察記録を残してい
ると書きましたが、その続編です。
鎖国下の日本において、唯一海外に向けて長崎に設置されたオランダ商館には
元禄年間に日本に勤務したドイツ人医師ケンペルは1712年にオランダで出版し
た著書「日本誌」に挿絵入りで詳しく日本茶について、説明し、記されている
製茶法は、今も各地の番茶製法にみられるものだそうです。
また、同じくオランダ商館の医師シーボルトも1823年に来日し帰国後に著した
「日本」には、茶の植物学的研究や釜炒り茶の製法の図解などをまとめ、日本
の茶を海外に広く紹介しました。当時持ち帰った茶のサンプルは現在もオラン
ダの博物館に所蔵され、極めて貴重な資料だそうです。
また、時代が美しく澄んだ茶を求めていたとき、永谷宗円が、従来の碾茶の製
法と番茶の製法のそれぞれの良いところを組み合わせて、新しい煎茶の製法を
完成させた、1738年のことです、これが「淹茶」すなわち、淹(だ)して飲む茶
です。現在でもこの製法を発展させた急須で飲むお茶が日本茶の大部分を占め
ています。
永谷宗円はこのお茶を江戸日本橋の山本屋(現在の山本山)に持ち込み、高い評
価を得て、次第に各地に広まって行きましたが、まだ、一般には釜炒り茶の時
代が続いていました。
また一方で宇治において、さらなる高級茶の開発も進み、天保時代になって、
最高級品としての「玉露」が作られるようになりました。
宇治の碾茶製造所で蒸葉を手でかき混ぜたところ、小さな団子状になり、飲ん
で見ると香味・色沢に優れていて、「玉露」と命名されて江戸で販売、絶賛を
博したとのことです。
碾茶はその製法で蒸して揉まないところが玉露とは違うだけでそれ以外はほと
んど同じ製法で、碾茶は抹茶の原料となります。
それでは........また.......。
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